晴れ晴れとした気持ちの情景描写かよ

2019-01-18

 

いいことしかない日だった。

 

内定先の研修が楽しみで目覚ましより早く起きた。

 

インターンでお世話になった社員に再会できるのも楽しみだったし、未来の同期に会えるのも楽しみだったのでこの日が楽しみだった。

 

新橋に向かうために電車に乗ると、冬の空気を突き通すように富士山がくっきりと見えた。

 

晴れ晴れとした気持ちの情景描写かよ、と思った。

 

会社に着いてからも楽しいことばかりだった。本社が新しくなることが分かったし、昼食の弁当はやけに健康的だったし、コーヒーが50円で飲めた。

 

唯一の残念だった出来事は、新橋の串カツ田中が空いてなかったことだ。

金夜だから当然か、、、と思っていたら、となりの一軒目酒場が空いていたので入った。

 

酒を数杯飲み、食べ物も結構頼んだが1人2000円いかないくらいだった。何をもって一軒目なのだろうと思った。

 

中央線は東京駅から乗ったので座って帰れた。起きたら最寄りの3駅前で得した気分になった。楽しいことしかない1日だった。

ちぐはぐとしている

2019-01-17

 

曖昧さを楽しめる人は幸福だと、ホンマでっか!?TVで誰かが話していた。

 

「曖昧さ」というのもまた曖昧な概念だが、ちぐはぐなものもまた、楽しめれば幸福ということか。

 

昼のマクドナルドでLサイズのゼロカロリーコーラを飲んでいる女性を見て、そう思った。

 

渋谷で東横線に乗り換えるのは好きだ。理由は1つで、高速のエスカレーターがあるからだ。

 

エスカレーターは高速の方が効率がいいから、みんな高速で作りたいはずなのに作らない。

だから、「高速のエスカレーター」は「公式に不道徳が認められた」みたいなゾクゾク感がある。

 

高校の時、先生に「今はケータイ使っていいぞ〜」って言われた時とちょうど同じ感じ。

 

そんなことを考えながら渋谷を歩いていたら、黒いビッグシルエットのコートを着た大人が、高校生が持つようなポリプロピレンっぽい素材のクリアケースを持っていたので、あ、またちぐはぐだ、と思った。

 

同時に、自分はちぐはぐを楽しめる側の人間だ、とも思った。

 

仕事のあと、夕飯を作る気も起きなかったので国立のつけ麺屋に寄った。特盛も並盛と同じ680円で食べられるので好きだ。

 

店内ではなぜかあらゆる曲がライブ音源でかかっていた。ちぐはぐとしていた。

愛がない例えとしてのドリス・デイ

2019-01-16

 

新しいバイトの面接があった。

 

面接といってもほとんど顔合わせみたいなもので、簡単なテストと給与などの説明があっただけだった。

 

新しいバイトは、アプリで展開する教材の作成をするもので、自分は国語で応募していた。

 

簡単なテストでは、「適当」「不手際」「目玉」「右」(あと3つくらいあったが忘れた)のうちから2つの意味を説明しなさいというものだった。

 

「目玉」と「右」を選んだ。「右」は、昔、右という言葉は辞書でどういう説明がされているんだろう、と調べたことがあった。たしか、「南を向いた時の西の方角にあたる方向」みたいな答え方だったと思う。

なんとなく腑に落ちない答えだったがこのまま説明した。

 

体調を崩していた祖母が大分よくなった、という連絡があった。

先日亡くなった祖父の妻になるので、色々と大変なことも多く体調を崩していたのだった。安心した。

 

塾の仕事に向かう時、映画『ヘアスプレー』のなかの『Without Love』を聴いた。この曲は、

“Without love, Life is Doris Day at the Apollo

(愛がない人生なんてアポロシアターで歌うドリス・デイみたいだ)

とか、

“Without love, life is a 45 when you can’t bye it”

(愛がない人生なんて買えない45回転式レコードみたいだ)

みたいな、なんだかよくわからない例えが出てくるから好きだ。

 

塾についたら、知らない先生がコンビニのアメリカンドッグを食べていた。ケチャップとマスタードを出す小さい容器(ディスペンサーというらしい、海外では評判が高いと先日読んだ)を丁寧に使っていて狼狽した。

金欠でなければ買っていた

2019-01-15

 

朝から仕事の1日だった。10時からのシフトなので8時前にはいえを出て中央線に乗る。

 

1時間ちょっと、と思えば大したことはないが、満員の中央線と埼京線を経由して行くにはあまりに遠すぎるように感じた。

 

スマートなお客さんが来た。グレーのセットアップにビビッドな赤の靴下、ポールスミスの黄色の大判マフラー。ビビッド×ビビッドの組み合わせはなかなかできるものではない。イケメンにだけ許されたファッションである。

 

スマートなので、試着したセーターはそのまま着て帰った。スマートなので、買ったソックスを入れるショッパーは「もったいないので」ポケットに入れた。スマートなので、「たぶん失くしちゃうから」クーポン券を断った。

 

ああいうスマートになりたいと、名前も知らない人生の目標ができた。

 

仕事が終わり、新宿駅の東南口を入ったところのコンコースを歩いていた時にワゴンのような小さな出店を見つけた。

 

みたらし団子を売っていて、2本で556円だった。高かった。ただ売っているおばさんはとても幸せそうな笑顔だったので、金欠でなければ買っていた。危なかった。

 

電車の中で忘れていた夕方の予定をおもいだした。

「忘れていた」というよりほぼ「知らなかった」に近いので、新しい予定ができたような感覚だった。時間がぴったりで気持ちよかったので行った。

 

よる、友人と酒を飲みながら大喜利をした。苦手なジャンルの遊びだった。

成人式なので祝いたい

2019-01-14

 

成人の日だ。

SNSを見れば後輩の晴れ姿が堂々と踊っていた。

 

いつも会っている後輩は振袖とスーツに身を包んで、いつも会っていないみたいな感じがした。

しばらく会っていない後輩はみんな大人になっていて、2年でこんなに変わるものか、と少し驚いた。(大人っぽくなっていて、と書こうとしてやめた。成人式なのだから、「大人っぽい」は少し失礼な気がした。)

 

めでたいことだ。

 

新成人を祝いたいと思うが、成人おめでとう、は何か違うような気がしていた。

 

成人していない子もいるから、その子に成人おめでとう、というのは違和感がある。

逆に、もう成人している子に成人おめでとう、というのも、成人したのは結構前なのだから、今さら、という気がする。

 

おめでたい時にはいつも何かがある。誕生日おめでとう、結婚おめでとう、出産おめでとう、優勝おめでとう、と、こんな具合だ。

 

 

成人式のとき、〇〇おめでとう、の〇〇の正解が分からない。テレビに映った人は、新成人の皆様、おめでとうございます、と言っていた。

 

なにか他のこととはルーツが違うのではないかと思ったので調べてみた。

 

どうやら、1946年の11月22日に埼玉県蕨市で行われた「青年祭」をそのルーツとするのが現在の定説らしい。意外に歴史が浅い。

 

文化人類学の視点で言えば、男子の元服や女子の裳着なども成人の儀に分類するのが一般的なようだが、その場合は「元服おめでとう」「裳着おめでとう」と各々のベストなタイミングで言えるのでこの場合は場合が違う気がする。

 

1948年に制定された祝日法では、成人の日は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」という趣旨らしい。

 

つまり

 

この場合の祝い方の正解は、

「大人になり、みずから生き抜こうという自覚を持てておめでとう、頑張れ」

である。

 

なんか違う。

何も残さないのが祖父らしい

2019-01-13

 

昨年末、祖父が死んだ。

 

「亡くなった」というより、「死んだ」という感じだった。

自由だがこだわりの強い人で、晩年も何かにつけて色々なものを買わせ、調べさせ、自分の思うようにしていた。

 

だから親戚も皆、晩年の祖父には困らされていたし、祖父が息を引き取った時も、やっと死んだか、という感じだった。

 

ただ、みんな彼を愛していたと思う。こだわりの強い祖父でもそのこだわりに応えようとしていた。

 

そんな祖父の家に片づけに行った。片づけといっても、ほとんど母と叔母が済ませていたので、高いところのものを取ったり段ボールに本を詰めたりするだけだった。

 

祖父の家の棚からは、とにかくいろんなものが出てきた。掛け軸、絵、写真、賞状、手紙、、、と、一枚一枚見ていればキリがない量だった。

 

掛け軸も手紙も絵も、親戚の素人が書いたものがほとんどのようで、値段が付くようなものはほとんどなかったらしい。結局何も残さないのがまた祖父らしい、と思った。

 

夕方にテニスをして、夜は後輩が遊びに来た。

 

体を動かすのは好きだ。今までサッカーや野球などいろいろやってきたが、何をやっていても楽しく体を動かせる。ことにテニスはそんなに疲れないからいい。

 

後輩とはいつも楽しく話せるが、自分のこだわりの押し付けになってしまうのが怖い。自分のこだわりを持って生きてほしいと思う。

みぞれだった

2019-01-12

 

後輩と一緒に2019年の目標を決めていて夜更かししてしまったので遅めの起床だった。雪が降っていたらしい。

 

雪の音がしないね、と後輩に言われたが、雪は景色を静かにさせるものだと思っていた。住んでいた地域が特別遠いわけでもないのに、こういったイメージの違いがうまれるのは何故だろう。

 

ホットチョコレートを作った。後輩はタメ口を使う練習をしているようで、すごく不自然な喋り方になっていた。敬語で話すことを無理やりタメ口にしているような感じだったので丁寧な話し方になっていてよかった。

 

後輩がタメ口を使う練習をしていて偉かったので、ガレットを作ってあげようと思っていたが寝すぎたのでパスタになった。美味しかったがブロッコリーの茹でが少し足りなかった。

 

言葉の使い方は人間の関係性を規定するように思う。敬語だった後輩がタメ口を使うようになると、近い人間になったような気がする。

 

ZOZOTOWNからダウンが届いたので着てみたら少し大きかった。後輩が似合うと言ってくれたので、「少し大きい」と言えなかった。

 

ダンボールのゴミを捨てに外に出たら雪ではなくてみぞれだった。ホットチョコレートがもったいない気がした。