別れる手続き

2019-01-04

 

別れたばかりの、こないだまで彼女だった子に会った。

 

会ったと言ってもたまたま会ったとかじゃなく、ちゃんと会う予定を立てて会った。うちに置いてある服とかを返すためだったが、結局多すぎて1/3くらいしか返せなかった。

 

人は「元カノ」「元カレ」という関係を笑顔で語らない。「彼氏の元カノが嫌い」とか、「元カレのことはなかったことにしたい」とか。

 

それは別れるタイミングが悪い、というか、嫌いになるまで付き合うからだと思う。きっとそこまでに嫌な出来事とかはあったはずなのに別れるに至らない。実は多くの人が理想主義なのかもしれない。

 

 

「付き合う」はなんの書類も作成されないから、行政上の手続きは必要ない。契約ではなく口約束なのである。

 

だから「別れる」のも、口約束の破棄でありなんの取引も必要ないはずなのに、人はアルバムを捨てたり写真を消したり、なにかの手続きを経ようとする。

 

不思議なものである。

「いたっ」よりも「ははは」のほうが近い

2019-01-03

 

後輩に、「デリーモのケーキを買った」と言われた。知らなかった。

非常識?と聞いたら、そうでもないと思う、写真送ります、と言われて安心。

 

言葉の問題だが、「非常識」という言葉。

「常識に非ず」であれば、常識ではないこと、例えば、ミッツマングローブは「女装している男であって、女性になりたいと望んでいるわけではない」というセクシュアリティを持っていることとか。常識ではないことなんだから、そういうことを言うのではないか?

逆に「常識がない」ということを言いたいのなら、「無常識」っであるべきだ。常識が「無い」んだもんな。

 

後輩にこれを言ったらやたら感心されたが、インターネットは8年前の正月に辛辣なコメントをしていて悲しくなった。

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2011年の正月の回答。ベストアンサーではない。

 

言葉の問題。ひとつ気になっていることがある。それは、

「面白い」と思う反応は、「痛い」という反応より本能に近いのではないか?

ということ。

 

【痛いと思う感覚】と、【「いたっ」という反応】の間には、「痛い」という言葉が介在している。言葉は世界共通ではないから、英語ではshitとか言うし、赤ちゃんはオギャーと泣く。

【痛いと思う感覚】

 ↓

【「痛い」という言葉】

 ↓

【「いたっ」という反応】

という、矢印ふたつぶんの距離がある。

 

一方「面白い」の反応ならどうか。

面白いとき、人は笑う。「ははは」と笑う。これは老若男女、世界共通である。なんの言葉も介在していない、純度の高い反応である。

【面白いと思う感覚】

 ↓

【「ははは」という反応】

矢印ひとつぶんの距離しかない。

 

だから、「ははは」のほうが「いたっ」よりも本能に近いんじゃない?ということ。

 

後輩に言ったら、暇なんですか?と言われた。写真は送られてこなかった。

おそるべしファン

2019-01-02

 

箱根駅伝は1区から「ドラマ」があった。大東文化の新井くんという選手が出だしで転倒した。これはLINEニュースにもなったし、夕方のニュースでも散々映像が流されたことだろう。観てないけど。

 

果たしてこの「ドラマ」を1年後に覚えている人がどれほどいるかと考えるとき、母によく言われた「くだらないバラエティとかドラマは明日には忘れてるんだから観なくていいわよ」というセリフを思い出す。たしかにドラマの内容は覚えていないが、このセリフだけは明確に覚えている。不思議なものである。

 

ところで箱根駅伝に出場しているケニアの選手を多く輩出している「ガル高」への関心がやまない。実はケニアの教育制度は8・4・4制であるらしく、実はこれは「ガル中」にあたるらしい。知らないことって山のようにあるんだな。

 

 

仕事は至極順調で、知らない女性のお客さんに「ファンなんです、お願いします」と言われる。

 

「ファンなんです」も分からないが、そのあとの「お願いします」が全く分からない。接客してくださいということなのか、はたまた写真でも撮って欲しいのか。不審だったので、大丈夫ですか?と言って愛想笑いを残しながらエントランスに逃げる。

 

ファンという言葉は便利である。近年は一般人の「インフルエンサー」が増えたことで、ファンという言葉を一般人相手にも使えるようになった気がする。ひとつ間違えればストーカーのような行為もファンなら許されるのか、おそるべしファン。

遊んだ方がいいですよ、私と

2019-01-01

 

年が明けた。

 

年が明ける瞬間というのは、記憶する限りでは家族と迎えているがどういうテンションでいたらいいのか分からない。家族もそう思っていそうである。

 

おせちというものは本来は「正月に料理をサボれるように」保存のきくものを詰めたものだ。それなのにその準備が恐ろしく忙しいとは、おせちも本末転倒そのものである。

 

新年の挨拶をする。喪中なのでおめでとうとは言わず、今年もよろしく、を繰り返す。

後輩に、今年は学生最後なんだからたくさん遊んだ方がいいですよ、私と、と言われる。変わった言い回しだな、と思うが、遊びたくなるので正解である。

 

仕事があったので午前中から台場に向かう。正月元日から台場にいる人というのは不思議だ。初売りなら銀座に行けばいいし、遊びたいなら渋谷だの新宿だのといくらでもある。と思っていたら大して売れなかった。人が来ていなかったな。

 

帰宅して蟹を食べた。蟹は食べていると黙ってしまうので接待や商談には向かないと言われるが、1人で食べると黙っていても問題はない。

ただ、やはり蟹いうのはみんなで頭を突き合わせながら、黙ってしまいますよね、と言って食べるものであるという感じがした。

みんなで食べることには向いていない、ということがみんなで食べることの価値を生んでいる。本末転倒も悪くない。